アメリカ

/ 情報誌『デス・ウオッチング』91.10より


 
 ダラスでのケネディ暗殺事件から28年が経過した。アメリカの葬儀に故ケネディ大統 領を登場頂き、故人を偲びたい。
 1963年11月22日(金)午後12時30分、ダラス市内をパレード中のケネディ大統領は 頭に銃撃を受け、午後1時に死亡した。パークランド病院では、2人のダラスの神父が終 油の秘蹟を行なった。「この終油の秘蹟により、主は汝の犯せしすべての罪より汝を許し たもう。アーメン」このとき大統領はまだ生きており、終油の秘蹟は有効であると神父 は言っている。病院に一番近いオニール葬儀店から一番高い棺が届けられた。検死調書 がつくられ、死亡者の職業欄には「合衆国大統領」と記された。
 遺体はその後大統領専用機で、ワシントンのベセスダ海軍病院に運ばれ、検死と防腐 処置がなされた。葬儀はホワイトハウスの近くにあるガウラーズ葬儀社が担当。この葬 儀社は1850年に開店し、ルーズベルト大統領の葬儀を担当した老舗である。ケネディ大 統領の棺はマホガニー製で2460ドル、これに貴重品入れを取付け総額3160ドルとなっ た。
 エンバーミングには3時間近くかかった。そのあと8着の洋服と4足の靴のなかから、 死装束が選ばれた。なお棺の蓋を開けたままにするかどうかで問題になったが、未亡人 の一言で蓋は閉ざされたままとなった。
 

   ●葬儀の手配


 儀式はデューク儀典局長の担当で、最初に国務省の文書保管所からルーズベルト大統 領の葬儀関係記録が取り出された。葬儀の各段階ごとに賓客の名簿と、座席、立ち席の 割当、行進の順序が検討された。一番厄介だったのは宗教上の問題で、アメリカ人はプ ロテスタントが多く、カトリック教徒の大統領の葬儀は前例がなかった。
 葬儀は、土曜日がホワイトハウスのイースト・ルーム、日曜が国会議事堂の円形大広 間、そして月曜は葬儀ミサと埋葬とに決定した。
 11月23日(土)午前4時34分、遺体は病院からホワイトハウスに到着。棺は7人で 運ばれ、ホワイトハウスのなかで一番広い「謁見の間」であるイースト・ルームに安置 された。
 11月24日(日)イーストルームで近親者のための最後のミサが行なわれた。そのあと テレビカメラが待ち受けている中、大統領の柩を乗せた砲車が、ホワイトハウスから、追 悼式の行なわれる国会議事堂へと行進した。
 この模様はテレビで中継され、アメリカ人の90%が見たという。行進は先頭にドラム と銃剣を携えた縦8列、横9列に並んだ水兵が進み、そのあと教会関係者、参謀長、大 統領付武官、柩を乗せた砲車、大統領旗、葬送用軍馬、柩隊、ケネディ未亡人のリムジー ン、親族が。そのあと子供たちを乗せた9台の車、報道陣、そして最後尾に隊列を組ん だ警官と3台の自動車が続いた。道の両側には、追悼の意を表す50本の色とりどりの州 旗が半旗になって掲げられた。
 円形広間では大統領の徳を偲ぶ演説に続いて、ジョンソン新大統領が花輪を捧げる儀 式が行なわれた。花輪は白と赤のカーネーションである。追悼式は14分で終わり、その あと円形広間は大統領にお別れを告げる一般の人々に開放された。通りは会葬の車の列 が延々と続き、夕刻には30 マイルも列が続いた。夜中の12時迄に10万人の人が別れを 告げたが、彼らのあとに3マイルも人の列が続いた。
 

   ●葬儀から埋葬へ


 11月25日(月)午前11時、柩は議事堂を出発。この日の葬列はホワイトハウスを経 てセント・マシューズ教会まで徒歩で行き、鎮魂ミサのあと、アーリントン墓地に埋葬 する。この間は6マイル以上である。
 12時14分、柩は教会に到着、教会でのミサが行なわれた。アメリカの七千の軍事施設 では、それぞれ21発の礼砲が撃たれた。ミサのあと最後の葬列が行なわれた。墓地まで は歩いて1時間15分。柩がアーリントン墓地に到着したとき、50機のF105戦闘機が柩の 上空を編隊飛行を行なった。柩護衛隊が棺の上の星条旗の端をあげると、枢機卿が聖水 をふりかけた。「弔礼射撃!3回斉射」の合図とともに、選抜射撃隊が45度の角度に3回 の斉射を行なった。
 柩を覆っていた星条旗はたたまれ、、ケネディ大統領未亡人に手渡された。「ミセス・ケネディ、この旗は悲しみにむせぶ国民の名において貴女に贈られるものです」
 喪の正式期間は30日であるが、葬儀の翌朝から、すべてが平常通り始まった。翌年1 月7日、葬儀社のオニールはケネディ家に請求書を送った。それは柩代、及びダラスでの サービス料として総計3995ドルと書かれていた。  (資料:マンチェスター「ある大統 領の死」恒文社)



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