モスクワ(ロシア)
/ 情報誌『デス・ウオッチング』91.7より
ソビエトは革命後、その政治経済体制はもちろん、宗教も葬儀も変化にさらされた。ロ
シアの代表的宗教はギリシャ正教であり、次にイスラム教である。しかし宗教は弾圧さ
れ、葬儀はその厳粛な儀式から世俗的なものに変わった。死者は唯物主義の国において
は価値をもたず、埋葬する土地も生産性に影響するということで、火葬が奨励された。
葬儀に関する習慣も「夕陽が沈む前に埋葬するのは、生命の源泉とされる太陽との訣
別からきたものである」、「穴に埋められた棺に一握りの土をふりかけるのは、人間と土、
すなわち自然との関連に由来する」とし、これらはキリスト教以前の民俗的慣習なので、
これを行なっても宗教への屈服にはならないとして、認めている。
工場労働者の葬儀
当時の葬儀の模様を、ジャーナリストのホワイトが「ミルクと蜂密の土地」に描いて
いる。ある工場労働者が肺炎で倒れ、政府の医師が病人の家に訪れて手当てをした。し
かし生命が尽き始めていることを知ると、子供達がさよならを言うために枕元に呼ばれ
た。妻は神父を呼び最後の祈りをしてもらうように夫に頼んだ。主人は宗教を信じてい
なかったが、この願いを聞き入れた。家族に共産党員がいなかったからである。もし神
父が家にいたことが知られたら、多分子供達の経歴に傷がつくだろう。
男は翌朝六時に死亡した。家族はベッドの回りに集まって別れを告げた。女性達は遺
体を洗い、再びベッドの上に寝かせた。昼間には親族全員が揃い、工場からも人がお悔
やみやってきた。
葬儀は翌日5時に行なわれた。夕方になった理由は、この時間でないと工場労働者が
集まれないからである。遺体は棺に納められ、皆で霊柩車まで運んだ。霊柩車が出発し
たあと、遺族たちは馬車に乗り、その後会葬者たちは列を作り歩いて進んだ。ある者は
手に花輪を、ある者は花束を持って墓地に向かった。
葬列がモスクワから2マイルの所にある墓場につくころには、すでに墓穴の用意が出
来ていた。皆が到着したあと、儀式は宗教でなく政治的演説によって行なわれた。最初
は工場長の挨拶である、「故人はソ連経済のために正直に働いた。しかし若くして亡く
なったのが、大変残念である・・・」
家族はこうした弔辞を真剣に受け取らなかった。それは故人と工場長とは面識がなかっ
たからである。しかし故人の友人が弔辞を述べたときには、熱心に耳を傾けた。故人が
来る以前の工場の様子や、彼の長所と彼から親切を受けた友人の多いことを述べた。
この弔辞が終わると長い沈黙がおとずれた。そして彼の妻が最初に土を棺の上に投げ、
子供達もそれに続いた。このあと家族は馬車に乗って市内に戻った。残りの者たちは来
たときと同じように歩いて帰り、墓には花々が残された。
現在のモスクワは火葬が42%
現在ソビエトは葬儀を1つの組織が運営している。1989年、モスクワでは10万5千件
の葬儀が行なわれ、そのうち42%が火葬である。埋火葬は遺族によって選択ができるが、
一家族には2人分の埋葬スペースしか与えられない。そして15年後には、再びそこを使
用するのである。
棺は1種類しかなく、柔らかい木で、布製のカバーが取付けてある。そして色は6種
類あり、その中から好きなものを選択するのである。モスクワには5つの火葬場があり、
もし火葬を選択した場合、遺灰は骨壷に入れそれを共同納骨廟に納めるか、大地に埋葬
する。葬儀料金は平均で200から400ルーブルである。なお1カ月の平均賃金が200ルー
ブルである。(アメリカンフュネラルデレクター/90年12月)。イギリスの葬儀雑誌「F
SJ」91年3月号にある、ソビエトの葬儀事情によると、ウクライナの火葬場の案内に
「棺が不足しているため、遺灰はポリエチレンの袋にて配送します」とあった。国のモラ
ルは、遺体をどれだけ大切に扱っているかが基準になるといって、遺体を大切にするよ
うに記事の中で、力説している。
(資料:ラマーズ「世界の葬儀風俗」)
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