チンギス・ハーン

/ 情報誌『デス・ウオッチング』95.3より


 
 1990年4月25日、元の太祖チンギス・ハーン(成吉思汗)の陵墓を探索する「ゴルバ ン・ゴル探検隊」プロジェクトの、日本・モンゴル合同学術調査探検隊の出発式が行わ れた。しかし調査の途上、91年4月に、モンゴル市民から「私の墓を触るなというチン ギス・ハーンの遺言に背いて墓探しをすべきでない」という声明文が寄せられ、調査は 中断したままになっている。
 

   チンギス・ハーンの死

 モンゴルを統一し、1219年には中央アジアや南部ロシアを征服したチンギス・ハーン は、1227年西夏を攻略している時期に、軍営で病死した。66歳であった。
 チンギス・ハーンは臨終の床で、「死亡したら深く警戒して喪を秘密にすること。西夏 国王とその一族及び寧夏城の住民は全員殺害するよう」に遺言した。軍営で病没したあ と、遺体は諸王やモンゴル貴族の首領の手で、はるばるゴルバン・ゴル(3つの川)ま で運ばれ、途中で出合った人は全て殺されたという。彼らの信仰によれば、こうして死 亡した人々は、すべて死後の世界の家来としたのである。
 ドーソンの『蒙古史』によると、遺体がハーンの故郷のオルドスに到着したときに初 めて喪が公にされた。この訃報を聞いて公主ならびに諸将は帝国の各地から駆けつけ、棺 の前に伏して慟哭した。最も遠くから駆けつけた者は3か月かかって到着したという。
 葬儀が終わったあと遺体は、ゴルバン・ゴルの源にある山脈の一峯に埋葬された。こ こに埋葬されたのは、かって同地方に狩に出かけたときに、その美しさにみせられて、 「私が死んだらここに葬ってほしい」と語ったからという。
 14世紀に書かれたマンデヴィルの『東洋旅行記』にも、その死の模様が記されている。 「皇帝が他界すると、人々は天幕の真ん中においた椅子に遺体を据えて、その前に白布に おおわれたテーブルをおき、パンや生肉や馬の乳を並べた。それから天幕の近くに墓穴 を掘って、遺体と一緒に天幕も馬も金銀財宝も一緒に埋葬した。というのは、彼らは死 後でもこの世と同じように、飲み食いするからである。
 また死者は夜間こっそりと埋めて、その上に雑草を生い茂らせることもある。これは 彼の知人たちが死者のことを思い出さないようにするためで、そうすれば、死者はあの 世で現在よりももっと偉大な人物になると信じられているからである。」
 

   チンギス・ハーンの陵

 チンギス・ハーンの陵は、今日の内モンゴル自治区イクチャオ盟のイキンホロ旗にあ る。この陵園にはジンギス汁と3人の皇后、2人の兄弟、4番目の息子、その夫人の棺が 安置されている。この陵は本当の陵ではない。ハーンの遺体は現在どこに葬られている のかは明らかにされていないのである。
 モンゴルの帝王を埋葬した場所は草が生えてあとが残らず、塚や墓を立てないという 習慣があるからである。しかしそれでは、埋葬場所を知ることが出来ないし、追悼も出 来ない。そこで祖先を記念するための陵が新たにつくられることになった。これを「八 白室」という。「八白室」は蒙古包の形をした幕舎8つで、それぞれチンギス・ハーンな ど8人が祭られている。
 現在の陵は1954年に再建されたもので、本殿は蒙古式の様式の本堂が3つとそれを結 ぶ廊屋で構成されており、そこにはハーンが生前使用した品物が、博物館のように展示 されている。
           (資料:羅哲文『中国歴代の皇帝陵』徳間書店他)



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