リンカーン

/ 情報誌『デス・ウオッチング』93.1より


 
 1865年4月14日、第16代アメリカ大統領のリンカーンは、ワシントンの劇場でブース という男にピストルで射たれた。弾丸はリンカーンの左耳の下に当たり、脳を貫いた。観 客の中にいた医師が大統領の傷を調べたが、すでに手のほどこしようがなかった。9時間 後リンカーンの呼吸は止り、そばについていた軍医はリンカーンの腕を組み、まぶたの 上には50セント硬貨を置いて目を閉ざし、口が開かないようにハンカチで口をしばった。
 リンカーンの遺体はエンバーミング(防腐処置)がほどこされ、4月18日、19日の両 日ホワイトハウスに安置された。この時2万5千人の人々が弔問に訪れた。4月21日、リ ンカーンの遺体は7輌編成の霊柩列車に乗せられ、葬儀が行われるニューヨークに向かっ た。
 その列車には2年前に死亡し、ワシントン霊園に埋葬された息子のウイリーの遺体も一 緒であった。列車は一路、彼が最初に立候補したスプリングフォードに向かい、そこで 埋葬されることになる。その距離およそ2700キロ、14日間の行程である。その途中、大 都市では棺が下ろされ、大通りを葬列を組んで住民の弔慰に答えるよう準備された。
 列車がフィラデルフィアにつくと、全市から遺体を人目見ようと人々が押し掛け、そ の列は3マイルにも及んだ。リンカーンの遺体を人目みるために10時間の忍耐が必要で あった。
 

   ニューヨークでの葬儀

 翌日、16頭の黒馬にひかれて葬儀車があらわれた。この特別仕立の葬儀車のてっぺん には自由の寺院が飾られている。さて葬儀車のあとからは、様々な文字がかかれた旗を もった会葬者が続いた。その数16万人。50万人の見物人がその行列を見るために通りが 人で埋め尽くされた。通りに面した2階はガラスが外され、そこを40ドルで貸された。葬 列に楽隊が葬送行進曲を演奏し、1分おきに大砲の音が市中に轟いた。
 棺が午後その蓋が閉ざされると、遺体を見られなかった大勢の人たちは列車に乗りこ んで、葬送列車がとまる予定の各駅に向かった。そして各大都市では棺の蓋が開けられ、 多くの哀悼者がリンカーンの死顔と対面した。
 

   埋葬地の変更

 リンカーン夫人は夫の遺体を国会議事堂のドームの下に埋葬するつもりであったが、ス プリングフィールドの代表に説得されて、そこに埋葬することに同意した。イリノイ州 スプリングフィールドは、リンカーンが最初に政治の舞台に出た思い出の地であるのだ。
 スプリングフィールドでは資金を募り、5300ドルで街の中央に土地を購入して、昼夜 兼行で墓穴を掘った。5月3日の朝、葬送列車がスプリングフィールドに付き、大勢の人 がリンカーンの埋葬式に集まってきたが、リンカーン夫人は突然電報でこの式を中止さ せた。そこは聖なる場所ではないというのである。埋葬場所を新しい墓でなく、そこか ら2マイル離れた共同墓地に埋葬するように命じた。翌日、葬列は六頭の黒馬にひかれ て、オークリッジ共同墓地に向かった。そして一般納骨堂に運ばれ、神父による祈りの あとそこに埋葬された。
 1876年にリンカーンの遺体窃盗未遂事件が起こった。そんなことがあってリンカーン の遺体は4回も場所を移され、1901年9月に同じ霊園内にコンクリートで固めてしまっ た。この時改葬に立ち会い最後にリンカーンの遺体を見た者の話では、すでに死後36年 たっていたが、防腐剤が効いていたので、まるで生きていたように見えたという。



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