毛沢東

/ 情報誌『デス・ウオッチング』94.12より



 中国の最高指導者であった毛沢東元主席は、1976年9月9日午前、82歳で死亡した。訃 告の知らせがラジオを通じて全国に流れると、国民は偉大な指導者の死を悼んで喪に入っ た。葬儀委員会は華国鋒首相、王洪文副主席等が名を連ねた。
 天安門正面に掲げられた毛主席の肖像の前には、次々と市民が集まり黙祷を捧げてい た。9日に追悼の日取りが公表され、9月11日より17日までの7日間は、人民大会堂に おいて弔問式、毛主席の遺体との別れが行われた。18日午後3時からは、天安門広場に おいて盛大な追悼大会を開催。この模様はテレビによって中継放送された。全国の県以 上の地区でも、18日午後3時に追悼会を挙行。北京での追悼大会の実況中継を聴取した。
 10日朝、天安門の肖像に黒の喪章が取付けられ、広場付近には早朝から喪章をまいた 多数の市民が訪れ、めいめいに黙祷を捧げていた。
 

   1週間の弔問式

 9月11日朝、人民大会堂において弔問式が始まった。この日、人民大会堂には党中央 委員、政府役員、労働者、農民、兵士代表からなる数万人が弔問に訪れ、堂内に安置さ れた主席の遺体に別れをした。
 弔問式は午前9時頃から始まり、参列者の列は天安門広場から大会堂北側の正面にと続 いた。黒の縁取りをした正面からは、葬送曲が流れた。この会堂には5千人が収容出来る が、9時過ぎから入場した代表者などの列が際限なく続いた。
 初日の弔問は午後11時過ぎに終了。この日だけでも弔問者は5万人を超え、夜には天 安門広場には、弔問者を乗せた数百台のバスで埋まった。
 毛主席の遺体は、人民大会堂一階にある大ホールの1つに、ガラスケースに入れられて 安置された。遺体には灰色、黒ボタンの人民服が着せられ、胸から下には赤の中国共産 党旗で覆われ、周囲とガラスケースの下部には、多くの供花が飾られた。遺体のそばに は、江青夫人ら遺族の花束と追悼の言葉が置かれた。花束はひまわりの花、ムギの穂、ト ウモロコシ、文冠樹の花で作られ、追悼の言葉に付された署名は江青夫人の他、3人の子 供と2人の甥という血縁遺族の名前があった。
 大ホール正面には「偉大なる領しゅう、導きの師、毛沢東主席は永遠に不滅」の巨大 な横断幕が掲げられ、その下には党、政府首脳をはじめ、党、政府など全国からの数百 の花輪で飾られた。弔問者たちの列は、遺体の右側の足の方から「へ」の字状に主席の 頭を回り、遺体に別れを告げてから左側から退出した。
 

   追悼大会

 18日午後3時より行われる式典のために、天安門前に式台が作られ、テレビカメラも 用意された。北京市内では政府機関はもちろん、一般民家まで半旗を掲げ、街を行く人 はすべて黒い喪章を左腕に付けた。
 式典は国歌とインタナショナル吹奏に始まった。王洪文副主席が司会に当たり、まず 3分間の黙とう。この時、中国の全国民が黙祷をささげ、汽車や汽船、工場なども3分間 サイレンを鳴らして追悼を捧げた。続いて華国鋒首相が追悼演説を行い、全員が天安門 上の毛主席の遺影に3回礼拝、最後に「東は明るく太陽は昇る。中国は毛沢東を生んだ」 との東方紅のメロディーを演奏して大会は30分間で終了した。最後に参加者は口々に 「毛主席、毛主席」と叫び、広場は深い悲しみに包まれた。閉会後30分ほどして、解放軍 兵士を先頭に百万人の参加者たちは所属単位ごとに広場を去った。
 

   毛沢東紀念堂

 その年の11月24日、華首相は、毛沢東を永遠に保存するために、彼の紀念堂を革命歴 史博物館と人民大会堂の間に建設を計画、翌年の3月22日に完成。70万人以上の人間が これに携わった。
(資料:朝日新聞、F・ウェークマン二世「毛沢東の遺体」カルフォルニア大学出版)



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