ピョートル

/ 情報誌『デス・ウオッチング』95.7より


 
 東方の未開国ロシアを、一大帝国に発展させたピョートルは、ギリシャ正教会をも、国 家に従属させた。1706年、彼はペテルブルグの町を建設し、12年そこをロシアの新首都 とした。
 1725年1月28日朝、膀胱に腫瘍のあったピョートルは、ネヴァ河沿いの宮殿の天蓋つ きの寝台で息を引き取った。寝台のかたわらには、巨大なローソクが燃えていた。司祭 たちがつり香炉の神聖な香のかおりをまき散らした。要塞から101発の弔砲が轟き、すべ ての教会から弔鐘が鳴りわたった。
 香を焚きこめられたツァーリの遺骸は、宮殿の大広間に運ばれ、安置台の柩に納めら れた。皇帝の死を聞き付けた群衆が押し黙り、列をなして、霊柩台のまえに脆いては立 ち去った。柩の中には深紅の服を着て、胸に聖アンドレイ勲章の綬をかけ、長靴をはい た彼が休んでいた。近衛士官たちが、ツァーリの遺体を守って立っていた。長いあいだ 正妻のエカテリーナは柩の蓋を閉めなかった。朝と晩に、彼女は欠かさず現われて、今 や誰にも危害を加えられなくなった夫のかたわらで、30分を過した。彼女は、夫に話し かけ、手に口づけし、すすり泣いた。この40日のあいだ、1日も休まずにエカテリーナ の涙を見物に出掛けた2人のイギリス人がいた。
 できる限りの配慮をしたにもかかわらず、遺骸は黒ずみ、形がくずれはじめた。ツァー リ崩御の5週間のち、まだその遺体の埋葬も行なわれない3月4日、末娘のナターシャが はしかにかかって死んだ。エカテリーナは、子供の死を深く悲しみ、父と同じ日に埋葬 することを決めた。
 役人が3月10日、ペトロパブロフスク寺院で、2つの葬儀が行なわれるとふれて歩い た。すべての高官および外交官は、自宅の窓を黒い布で飾るようにとの命令が出た。と たんに市場で布の値段が高騰し、どこの店先でも、黒布の切れはしが奪い合いだった。
 

   雪のなかの葬列

 当日、雪とみぞれの吹きつけるなかで、葬送の行列が動き出した。皇帝の柩は12人の 士官によって運ばれ、金色の羅紗と緑色のビロードでできた天蓋から垂れ下る金の房を、 8人の少将が捧げもった。小さなナターシヤの柩には、金の布に白と赤の羽を飾った天蓋 がついていた。聖旗の回りには、無数の僧侶がつきしたがった。女帝は、喪の盛装に身 を包み、政治家のメーンシコフとアプラークシンに、両側から支えられていた。そのあ とに、2人の娘、アンナとエリザヴエータがつづいた。
 白い嵐の吹き荒れるなかを、高位高官、陸海軍の将軍、廷臣、外交官らが、帽子もか ぶらずに歩いて行った。トランペットと太鼓が葬送の曲を奏で、陸軍と海軍の大部隊が、 林立する軍旗とともに進んだ。144発の弔砲が撃たれ、音楽がいっときかき消された。要 塞に行くには、凍結した河を渡らねばならない。葬列がネヴァの氷のうえにさしかかっ たとき、嵐が勢いを増した。風がかつらをほつれさせ、喪服の裾を巻きあげた。行進は 2時間つづいた。ミサの行なわれる寺院は広かったが、全員が入ることはできなかった。
 

   ミサ

 ミサのあいだ、女たちは声をあげて泣いた。式が終ると、プスコフの大主教プロゴポー ヴィチが、弔辞を述べた。「われわれに何が起きたというのだろう、おお、ロシアの民よ。 われわれは何を見ているか、何をしているか。そう、ピョートル大帝の遺骸を葬ってい るのだ…」
 悲しみの叫びで、演説が断ち切られた。彼自身も、感動して涙を流している。それか らやっと落ちつきをとりもどした声で、
 「皇帝は逝ってしまわれた。しかしわれわれは貧困と悲惨のなかにとり残されたわけで はない。…皇帝の努力の結果として、力と栄光という無限の宮がわれわれに残された。 ……ロシアの国は、皇帝がつくり給うたかたちのまま、生きつづけるだろう。…」
 降りつづける雪のなかに、最後の弔砲が轟いた。柩に香が焚きこめられ、蓋が閉じら れ、皇帝の徴である緋色の覆いが掛けられた。
            (資料:アンリ・トロワイヤ『大帝ピョートル』中公文庫)



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