ヴィクトリア女王
/ 情報誌『デス・ウオッチング』95.10より
大英帝国真盛りな時代を象徴するヴィクトリア女王は、死の前年、毎年訪問していた
南フランス行きをやめて、軍隊の補充兵を求めてアイルランドに行った。時に81歳であ
る。新世紀に入った1月14日、南アフリカから戻ったロバーツ卿を謁見してからその体
力を使いきった。女王が病の床に着いたとの記事が1月17日の新聞紙面に載った。1月
20日、ドイツのウイルヘルム皇帝が祖母にあたる彼女を、ポーツマスに見舞いに出かけ
た。
1月22日、付き添いの医師団が彼女の呼吸に異常を認めて、ウィンチェスター主教を
呼んだ。主教は教区牧師を伴い、ウイルヘルムや家族がいる中で、大声で祈祷を続けた。
午後6時半、彼女の死を知らせる公布書が発行された。「6時30分、女王が平安のうちに
お隠れになりました。」その知らせは、待ち構えていた新聞記者によって報道されること
になった。
通夜の準備が開始され、従者は遺体の眠る寝台の四隅に侍立した。君主の死は64年ぶ
りのことで、伝統的な葬儀の手順を知っている者はほとんどいなかった。
その日の夜、家族は白布で覆われた遺体の周りに集まり最後の別れを告げた。
遺体安置
オズボーン館では、ウイルヘルム皇帝自身が、遺体が正装安置される予定の部屋の衣
替えの指示をし、葬儀屋の出入りを拒否した女王の遺志を尊重して、遺体の身長を計っ
て棺を注文した。翌朝遺体は階下のチャペルに下ろされ、ユニオンジャックで覆われた
台座に棺ごと安置された。
大葬の準備がウィンザー城で進められている間、女王の遺体は手に十字架を持ち、レー
スのベールとキャップで髪と顔を被い、花に埋もれて棺に納められ、正装安置された。
棺にはべルベットの王衣がかけられ、その上に王冠が乗せられた。周囲には八本の大
きなローソクが部屋を明るくした。
王室の儀式を司る役目をもつ紋章院総裁のノーフォーク公爵は、ヴィクトリア女王が
微細に指示をした大葬の式次第を手にしていた。それによると、彼女が希望していたの
は軍葬であった。
軍葬
2月1日、棺は白と金のベルベットにくるまれカウズに運ばれ、そこで王室専用のヨッ
ト「アルバータ号」に乗せられた。そしてこのヨットはポーツマツに向かった。そこか
ら特別列車が110キロ北東にあるビクトリア駅へ運び、ビクトリア駅からパディントン駅
まで砲車で進んだ。国王、王子たち、将軍たちが馬を進め、各部隊が行進するあとに六
台の馬車が続き、棺の横には陸軍元帥が供奉した。棺の直後には新国王とウイルヘルム
皇帝が馬にまたがって続いた。
棺を乗せた砲車を城まで牽引していくはずの数頭の馬が、ウインザー駅の構外で待機
していたが、出発の際に引き綱が切れてしまった。軍楽隊はすでに出発していたので、急
いで砲車が軍の儀仗兵によって引かれることになった。これは予想よりも威厳のある葬
列となった。ロンドンの町角には、売春婦までが喪服に着替えており、道を行く掃除夫
らのほうきにも喪章が巻かれていた。この葬列には、ロンドン滞在中の若き夏目漱石も
見物しており、その模様を日記に記録している。
引き続いて簡単な礼拝が、2月4日まで遺体が安置されていた聖ジョージ礼拝堂で行わ
れた。ウィンザーに近いフロッグモア廟で、埋葬に先だって司式された礼拝は、夕刻近
く行われた。ヴィクトリア女王は、亡き夫アルバートと並んで埋葬されることを願って、
彼女の注文で40年前に完成していた白の横臥像の下に眠りについた。
(資料:S・ワイントラウブ著『ヴィクトリア女王』中央公論社)
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