原 敬

/ 情報誌『デス・ウオッチング』95.9より



 内閣総理大臣・政友会の原敬は、大正10年11月5日、京都で開かれる党の大会に出席 するために前日夜7時25分、東京駅の改札口に向かった。そのとき19歳の青年に心臓を 刺されて午後7時50分、駅長室で息を引き取った。駆け付けたあさ子夫人は、遺体を首 相官邸に帰そうとした閣僚に言った。
「こうなってしまえば、もう首相官邸に用事はありません。自宅へ帰してやりたいと思い ます」
そして約1時間後に芝公園の自宅に帰った。

   告別式

 遺体は7日、告別式の行なわれる政友会本部に移された。午前9時、導師及び7名の役 僧が移棺祭を執行したあと、白綸子に覆われた棺が自宅を出て、11時、政友会本部に運 ばれた。本部内の告別式場は、四方を白布で覆われ、祭壇は南向きに設けられた。
 棺はここに安置され、棺の前には原氏の半身像が置かれた。祭壇の左右は両陛下、東 宮殿下から賜った生花が各一対並べられ、その下に各宮殿下からの生花、更に前方部屋 いっぱいに各大臣議員等の花輪が並べられた。式はあさ子未亡人の焼香から始まり、家 族、葬儀委員長高橋蔵相から順次焼香が行なわれた。
 彼の葬儀は、遺言通り郷里の盛岡で行なわれることになり、遺体は11月7日夜、上野 駅より送られた。

 郷里での本葬

 葬儀は11月11日に行なわれた。前夜から降り出した雨は、葬儀当日も降り続いた。雨 のなかで葬列の準備が行なわれ、午後1時、位牌を安置した棺が原邸を出発した。霊柩の 中は故人のへその緒を納めたもの。葬列の先頭は警部2騎、一列の高張り提灯の後には東 京市長、両総督、総監、各国務大臣、各元老、各宮殿下寄贈の生花が二丁余りも続き、更 に両陛下並びに東宮殿下御下賜の花輪が続いた。それから高張り、狭箱がいくつか続い て、原敬氏その他の親族の供花の後に、著名の会葬者の腕車を走らせ、別府書記官は勲 一等、原秘書官は大勲位を奉持し、次に霊柩が進んだ。
槍、傘、狭箱、草履取り、押さえの後から燕尾服姿の喪主と白襟黒紋付に数珠を持った 浅子未亡人が続いた。さらに葬儀委員長を先頭にして、一般会葬者の列が長く続いた。
 霊柩が大慈寺山門に到着すると、喚鐘が三点鳴り、やがて白丁の手によって霊柩は本 堂仏前に安置された。喪主、その他の近親は左側の席につき、大臣、総監などは右側の 席に着席した。本堂は狭いために一般会葬者は本堂に上がる階段の上下にあふれた。
 大導師黄檗宗管長以下僧衆の読経が終わると、勅使および皇后陛下御使い、東宮殿下 御使いの焼香があり、次いで喪主、浅子未亡人などの遺族焼香が行なわれた。貴族院代 表などの弔辞を霊前に供え、それより親族の焼香は終わり、葬儀委員長が挨拶を述べた 後、一般会葬者の焼香に移った。当日沿道両側には、一般会葬者のための焼香炉がいく つも設けられ、雨の中を香の煙が低迷して、あたかも霧のなかを行くようであったという。

 原敬の遺言
一、
死後位階勲等は絶対にご辞退申し上げること。
一、
葬儀は郷里盛岡に於て執行し、儀杖兵を附せられることあるもこれを辞し、香華の 寄贈も辞すべし。
一、
墓標には位階勲等を記さず、単に「原敬之墓」と銘記すること。
一、
死亡広告は別紙の文案によること。
一、
葬儀時刻は夕方の事。
一、
葬儀は母や兄の例により、それ以上のことをすべからず。



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