勝海舟

/ 情報誌『デス・ウオッチング』92.6より



 咸臨丸を指揮してアメリカに渡った幕末の政治家である勝海舟は、明治32年1月19 日、風呂あがりにブランデーを飲み、脳溢血でそのまま意識を失い1月21日午後死亡。 77才。
葬儀は1月25日午前9時より、赤坂氷川町四番地の自邸を出棺。儀式は遺言により、す べて質素にし、生花、造花、放鳥の寄贈を謝絶し、会葬者の弁当および車夫への弁当料、 新聞への広告はいっさい廃止し、その費用はすべて赤坂区役所の手をへて、同区内の貧 民に寄付するはずとなっている。

 葬列/勝邸から青山まで

 午前9時、大雪のなかを自宅正門より出棺。先頭は騎馬警部2名、次に海軍軍楽隊が 「哀しみの譜」を演奏し、横須賀海兵団、水雷団など水兵による儀杖兵半大隊、ならびに 第3聯隊の歩兵2中隊が銃をさかさにしてこれに従った。海軍葬でないのに海軍儀杖兵 を参加させたのは、勝が海軍に対する勳功が大きいことによる。そのあと先導2人、高 張8のあと、「南無一上行菩薩」「南無二無辺行菩薩」と記した旗二。天皇から賜わった 生花1対、各華族より贈られた生花・造花30対、楽僧6人、龍旗2が続いた。続いて導 師の神奈川の善行寺住職が馬車に乗って従い、龍旗2、銘旗1、丸高張4と続いた。香 炉、位牌のあと、旭日章、瑞宝章の勲章が捧げられ、いよいよ龍旗2を先立てて、長さ 9尺、横4尺8寸、総ヒノキの柩が、白丁(はくてい)30人によってかつがれ、近親の 人々によって守られながら雪の降る中を進んだ。
 柩に近接して天蓋1、龍燈2、呉床(座臥の具)2、造花蓮2、造花牡丹2、杖ぞう り1、高張4が続いた。各白丁はこれらをもって進み、次に11才の喪主勝精氏(徳川慶 喜の十男、死の直前に相続人となる)がつるばみ色の衷服に素服をかけ、藁くつをはき 徒歩でこれに従った。そのあと夫人令嬢一家一族および徳川公爵、梶夫人らが馬車に乗っ て続いた。また勝の弟子たち及び陸海軍の武官数名、陸海軍の儀杖兵が続き、会葬者千 名あまりがそのあとに従った。
 列は田町通りを赤坂表町に出て、青山御所正門前から青山葬祭場へと向かった。

 会葬者と休憩所

 祭場左右の茶屋14軒を会葬者の休憩所にあて、祭場広場の左右両側一列にテントを 張って、会葬者の休憩所に宛てた。会場混雑のため霊柩到着以前の会葬先着者ですら、こ のなかに入ることはむずかしかった。また祭場の右方を親族席とし、その左を会葬者席 として定めた。
 10時55分、柩は海軍楽隊が吹奏する音楽に導かれて青山葬祭場に到着。式は11時50 分に終了した。それより棺は午後1時同所を出発し、荏原郡馬込村の新墓地に送られた。 ここは海舟の別荘がある地で、墓碑はには「海舟之墓」と刻まれている。

 追悼会

 勝海舟の門下生および友人たちは、毎年2回ずつ、故人の墓地のある千束村の洗足軒 にて追悼会を開くことに決めた。死後1年後の春季会は富田鉄之助によって、4月29日 午前9時より、下荏原郡馬込村千束池畔にて開催された。  (資料/田村栄太郎「勝麟 太郎」他)



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