諸橋轍次
青山葬儀所での本葬
本葬は12月25日、午後1時より青山葬儀所にて行なわれた。白の菊で飾られた白木の
祭壇には、博士の遺影が掲げられ、その前に天皇・皇后両陛下からご下賜の祭粢料、皇
太子・同妃殿下からの供花・特旨をもって賜与された銀杯一組、並びに正三位の位記、勲
一等瑞宝章・文化勲章が並べられ、その両脇は数多くの生花で生め尽くされた。
葬儀は静嘉堂文庫長の司式により、導師は曹洞宗管長、大本山曹洞宗総持寺管主他13
名によって行なわれた。
弔辞は筑波大学学長他四氏によって読み上げられ、続いて五百通に及ぶ弔電の一部が
披露された。読経のなか、喪主、遺族の焼香、田中角栄元総理ら参列者の焼香が行なわ
れ、最後に葬儀委員長から謝辞が述べられて葬儀は終了した。続いて午後2時10分から
告別式に移り。一般会葬者の焼香が行なわれ、午後3時式典は終了した。この日の会葬者
数約1000人。
故里での村葬
諸橋轍次の故里、新潟県南蒲原郡下田村の下田村総合体育館で、翌年3月13日午前10
時より村葬が行なわれた。
遺影が飾られている祭壇中央には2千本の白菊が飾られ、その中を位牌を手にした長男
隆典氏を先頭に、未亡人ら遺族九名が入場。続いて菩提寺住職を導師として、村内全寺
院の僧侶14名が入場した。参列者一同の合掌礼拝に続いて読経が始まった。
次いで葬儀委員長である下田村長から送葬の挨拶が行なわれ、続いて新潟県知事等5名
より弔辞が捧げられた。続いてNHKで放送されたテレビの録画を会場に流して生前の
博士を偲んだのち、焼香が行なわれた。最後に遺族の諸橋隆典氏より挨拶が行なわれた。
この挨拶文は村民葬にふさわしい内容と思われるので、その一部を是非とも紹介したい。
長男による遺族挨拶
「私は故轍次の長男、諸橋隆典でございます。謹んで一言お礼申し上げたいと存じます。
本日は父のため、村葬という最高の礼をもって遇して頂き、最大の栄誉を賜りました事
は、父はもとよりの事、我々遺族一同、誠に有難く厚く御礼を申し上げる次第でござい
ます。
又、ここまでの運びに至りますまでの関係者の皆様の御努力・御苦労は並大抵の事で
はなかったかと思い、衷心より感謝をいたしております。
春とは申せ、未だ雪も有り大変寒うございます。又、本日は日曜日、折角のお休みの
ところを、村民の皆々様には、かくも大勢お集まりいただき、葬儀・告別式、更に父の
冥福をお祈りいただき、本当に感謝に堪えない次第でございます。
又、先程来、村長様・県知事様をはじめ、多数の皆様から大変御懇篤なる心のこもっ
た、又、過分の御弔詞を賜り、誠に恐縮に存じ、重ねがさねの御芳情、お礼の申し上げ
ようもございません。
さて、父の事に少し触れて見たいと思いますが、父は明治16年、四ツ佐波村大字庭月、
ただいまの下田村庭月に生まれました。(中略)37年に、下田村の名誉村民に推挙されま
した時には、本当に心から喜んでおりました。それまで、多少の称号はいただいていた
わけでございますが、この名誉村民が一番嬉しかったと見えて、これで僕も親孝行が出
来たと、感慨深げでございました。(中略)
父は生前、『自分は郷里の人間であるから、従って、死んだら必ず郷里に帰る。そして、
片隅でもよい、両親のそばに埋めてほしい。両親のそばに眠りたい。』
というのが一貫した考えであり、しかも強い希望でありました。
父は皆様の御芳情に感謝をし、満足してこの地に永久に眠ることになると思います。そ
して、二度と再び、この懐かしい父祖の地を離れる事はございません。村民の皆々様、本
日は本当に有難うございました。」
合掌礼拝に続いて、村長からの謝辞があり、式典は11時50分に終了した。この日の会
葬者数600人。(老婆心ながら付け加えますと、この挨拶文に、重ねがさね、再びなどの
忌み言葉が用いられているのが、気になりました)
(資料『諸橋轍次博士の生涯』大修館書店)