本居宣長

/ 情報誌『デス・ウオッチング』92.9より


 
 本居宣長(1730〜1801)は江戸中期の国学者、歌人で、「やまと心」を知るうえで、今 なお欠かせない思想家である。彼は死の一年前に遺言書を書き残している。これには自 分の遺体の納棺の仕方から、葬式・墓所・追善についてまで事細かに指示をしている。


 遺言書の記載事項

一、
死亡してから葬送までの間の念仏は必要ではない。ただし宝樹院(住職の号)の仏前での勤めは構わない。
一、
沐浴は世間並でよろしい。沐浴のあとは普段のようにひげをそり、髪を結う。死装束はさらし木綿の綿入れ。その時節の服でよい。麻の十徳(医者などが着る外出着)に木製の脇差し(小刀)。棺のなかにはさらし木綿の小ふとんを敷き、わらを紙に包み、棺のなかの所々に入れて遺体が動かないようにする。棺は箱で、板は杉の六分板を用い、一度カンナで削る。棺の内外とも美濃紙を張る。
一、
棺は山室妙楽寺に埋葬する。夜中密かに太郎兵衛(次男)並びに門弟の1人2人でこの寺に送る。そのために、樹敬寺本堂までの葬列は空で送ることになる。

 次に樹敬寺で行なう葬式のため、本居家から寺の本堂までの葬列図が添えられている。

  
先頭はかけ流しの白張り箱提灯2人、持ち人はかんばん脇差。次に長刀で白布の袋掛け、持ち人の衣服は平日の通り。次に法樹院。次に乗り物(棺)で、乗り物、棒は白布で包み4人で担ぐ。この左右に若党がつく。次に健亭、挟み箱と続く。

一、
位牌や三具足は初めから樹敬寺本堂に飾って置くこと。幡、天蓋、提灯などは無用。 乗り物ならびに道具代は相応に支払い、乗り物、長刀などは家に持ち帰る。死骸は妙楽寺へ葬るが、葬式は樹敬寺で行なう。

 このことは本人の遺言であることを事前に樹敬寺に断っておくよう指示している。

 2ケ所の墓

 墓所は2ケ所設けるように指示している。1つは世間なみの仏式の墓で、もうひとつは 自分の信仰 の対象としていた神道のものである。仏式の墓は樹敬寺に建て、戒名も自 分で「高岳院石上道啓居士」とつけ、妻の戒名もあらかじめつけて、墓石に彫るように 図で示した。(さし絵)もう一つは妙楽寺に作るものである。こちらは「本居宣長の奥墓 (おくつき)」と彫り、そこに桜の木を植えるように指示をしている。この墓は本人によっ て、死の半年前に完成させている。

 臨終

 宣長は享和元年(1801)9月中頃より風邪ぎみで静養していたが、25日ごろから病気が 重くなった。そして27日ごろから危篤状態となり、家族・親類はもとより、門人たちが 大勢枕頭にはべった。28日夜の12時すぎに4人の門人に看取られて死去。72歳。

 葬送の様子

 葬儀は10月2日に行なわれた。遺言書では本居家から樹敬寺まで空の棺で送ることに なっていたが、松坂の奉行所の指示で許されず、葬式のあと改めて山室に行くことになっ た。葬列は午後4時頃本居家を出発、まず樹敬寺本堂で葬式をすませた。亡骸を乗せた棺 は白の布で覆われ、若党に守られて進んだ。それに長男の春庭、続いて大平、続いて家 族・親戚24人、さらに門人たち30人が麻上下を着て従った。家族・親戚以下は、3列に なり、総勢250人くらいで進んだ。
 葬列は山室の山に近づいた頃には日が暮れ、皆の者は提灯に火を灯した。里人は、家 ごとに道に出てこの葬列を見送った。山室村につくと庄屋が麻の上下で出迎え、先に立っ て案内した。そのうちに妙楽寺に到着し、そこから坂道を上がって午後10時頃に墓所に 到着。棺を下ろし、塚の後側から深く掘って岩構えの中に入れ、その口を石の戸で閉ざ し、それをまた土で固めて、埋葬をすませた。塚の上には桜の木と松の木が植えられて おり、「本居宣長之奥墓」と刻んだ石碑も、すでに建てられていた。
 墓所にとどまって亡き師に仕えた門人の植松有信は、葬送の翌晩から墓所付近の妙楽 寺の草庵にこもり、9日まで墓前に仕えた。

                    (資料:城福勇『本居宣長』吉川弘文館他)



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