本居宣長
2ケ所の墓
墓所は2ケ所設けるように指示している。1つは世間なみの仏式の墓で、もうひとつは 自分の信仰 の対象としていた神道のものである。仏式の墓は樹敬寺に建て、戒名も自 分で「高岳院石上道啓居士」とつけ、妻の戒名もあらかじめつけて、墓石に彫るように 図で示した。(さし絵)もう一つは妙楽寺に作るものである。こちらは「本居宣長の奥墓 (おくつき)」と彫り、そこに桜の木を植えるように指示をしている。この墓は本人によっ て、死の半年前に完成させている。
臨終
宣長は享和元年(1801)9月中頃より風邪ぎみで静養していたが、25日ごろから病気が 重くなった。そして27日ごろから危篤状態となり、家族・親類はもとより、門人たちが 大勢枕頭にはべった。28日夜の12時すぎに4人の門人に看取られて死去。72歳。
葬送の様子
葬儀は10月2日に行なわれた。遺言書では本居家から樹敬寺まで空の棺で送ることに
なっていたが、松坂の奉行所の指示で許されず、葬式のあと改めて山室に行くことになっ
た。葬列は午後4時頃本居家を出発、まず樹敬寺本堂で葬式をすませた。亡骸を乗せた棺
は白の布で覆われ、若党に守られて進んだ。それに長男の春庭、続いて大平、続いて家
族・親戚24人、さらに門人たち30人が麻上下を着て従った。家族・親戚以下は、3列に
なり、総勢250人くらいで進んだ。
葬列は山室の山に近づいた頃には日が暮れ、皆の者は提灯に火を灯した。里人は、家
ごとに道に出てこの葬列を見送った。山室村につくと庄屋が麻の上下で出迎え、先に立っ
て案内した。そのうちに妙楽寺に到着し、そこから坂道を上がって午後10時頃に墓所に
到着。棺を下ろし、塚の後側から深く掘って岩構えの中に入れ、その口を石の戸で閉ざ
し、それをまた土で固めて、埋葬をすませた。塚の上には桜の木と松の木が植えられて
おり、「本居宣長之奥墓」と刻んだ石碑も、すでに建てられていた。
墓所にとどまって亡き師に仕えた門人の植松有信は、葬送の翌晩から墓所付近の妙楽
寺の草庵にこもり、9日まで墓前に仕えた。
(資料:城福勇『本居宣長』吉川弘文館他)