中江兆民
葬儀と弔辞
故中江兆民の遺体を納めた棺は、午前9時自宅より棺車に載せられ、出入りの者が先頭
になり、次に板垣伯大石正己両氏、続いて銘旗、次に棺車が続き、さらに人々がそのあ
とに続いた。同10時、青山墓地会葬場に到着。式場には各政党員他、新聞記者など約1
千名を参集して棺を迎え、場の正面に棺を安置し、まず葬儀係である伊藤大八氏より開
会の挨拶があり、続いて板垣退介の弔辞などが行なわれ、続いて大石正己氏の演説が行
なわれた。
「ご会葬の諸君に申しあげますが、中江篤介君が遺言によりまして一切神仏を排してく
れということであります。ついては門人又は知己朋友は、余の死したる際には相集まっ
て酒でも飲んで別れてくれという遺言でありました。しかるに今日ここに君の終わりに
臨んで、公に諸君と共にここに相集いまする所以は、もと中江篤介君は普通一般私にこ
の世の中に生活した人ではない。生まれて死に至る迄その能力のある限り又自分の手腕
の続く限りは、国家のために尽くされていかにも瞑するに至るまで、国を愛し国を思う
ので実に報告の人でございます。故にこの終わりに臨んで知己友人相集まってこの死を
悼み、また国のためにこの人の死を惜しむということは当然のことであろうと思います。
それで今日ここに相集まりまして、知己朋友門弟はここに死骸をおいて、詩文を賦しま
たもってその遺族を慰めることもあらんかという考えで、かくの如く相集まりました次
第であります…」
葬儀の記事
この時の葬儀をある新聞記事は次のように報じている。
「先生は生前に於て宗教を信ぜざりしため、葬式のごときも神・仏・キリストの儀式にか
かわらず、ただちに火葬場に送ってだびにふする遺言なるも、かくては余り遠路にて告
別式を青山墓地会場に執行することとなしたり…一代の奇人の最後を飾るには、又一代
を驚倒せしむるの奇葬式を見るなるべし(明治34年1月15「報知新聞」)
葬儀後棺車は親族旧友に見守られて世田谷区の落合火葬場にて荼毘にふされた。中江
兆民はルソーを日本に紹介した学者であるが、日本で初の告別式を行なった者として記
憶にとどめておくに値する人物である。
中江兆民はその著『一年有半』のなかで、遺体処置のことにふれている。
「墓地日に月にますます広がって、宅地耕地すべて生産地を侵すこときわめて大なり。東
京谷中青山にみて見るべし、その間歳月の久しき、旧をこわし新たに代え、あい償って
いるといえども、大勢においては増すことはあっても減ることはない。余は法案を設け
て一切火葬となし、各人携えて残された余りは骨と灰を一緒に堆積して、毎月日を定め
てこれを海中に投棄することを希望する。それ各人祭祀のごときは、遺骨を家に置き、か
つ写真もしくは油絵をならべ、これに対して誠を尽くせば、子としての情を尽すにおい
て、充分ではないだろうか。何故必ず墓をもってしなければならないのか。もしそれ国
家に大いなる功労をもたらした人物のごときは、碑を建ててこれを表彰するべきなり。一
般の人の場合には、一々碑を建てることはおかしなことではないだろうか」(55頁)