夏目漱石

/ 情報誌『デス・ウオッチング』94.9より



 大正5年12月9日、文豪夏目漱石は午後6時50分、息を引き取った。死因は胃潰瘍、 50歳だった。枕もとに待機していた夫人をはじめ、友人中村氏以下門弟40余人の人々が 涙ながらに末期の水を行った。10日午後1時半、遺体は生前の希望により、牛込の自宅 から寝台車で医科大学病理解剖室に運ばれ、そこで解剖された。解剖のあと遺体は再び もとのように縫い合わされ邸宅に帰った。なお彼の脳と内臓諸部分は大学に保管された。
 12日の明け方、遺体を見守っていた漱石の遺族、親戚、友人、門下生らは、午前六時 半に改めて霊前を清めると、喪主はじめ未亡人、遺族は最後の別れを告げた。やがて白 絹で覆われた棺の上には、大学教授ケーベル博士寄贈の花輪が供えられ、「文献院古道漱 石居士」と記した位牌を棺の前に安置された。
 7時半より小石川の徳雲寺の役僧3名によって読経があげられ、焼香に移った。そうし て出棺の準備が整うと、第1の馬車に僧侶、次に棺を乗せた馬車、次に遺族、親族等六輛 の馬車に分乗して、午前8時半夏目邸を出発した。他の人々は電車で青山に向かった。

 葬列

 棺車は9時半に、準備がととのっている青山齋場に到着。ただちに祭壇に安置して、そ の上に「夏目金之助之柩」と書かれた銘旗が掲げられた。位牌の前にはおびただしい供 物や生花、花輪が飾られた。
 受付には、フロックコートを着た芥川龍之助と紋服の赤木桁平が立った。会葬者は大 部分が文壇、新聞社、出版社の人であった。

 葬儀

 葬儀は午前10時から始まった。宮内省に勤める東洋城が司会を務めた。10時半になる と、故人が生前親交のあった、鎌倉円覚寺派管長以下、12名の式衆を従えて祭壇に昇り、 読経が始まった。次いで朝日新聞社社長の弔辞朗読が行われた。
「維時大正5年12月12日、謹みて故夏目金之助君の霊に告ぐ。君、我が社にある10年、 るい弱の身をもって執筆おこたらず、現に我が紙に連載する『明暗』のごとき188回の多 きに及び、いまだ稿終わらず、宿痾再発し溘焉(こうえん)として逝く、恨みなんぞ限 らん。(以下略)」
次いで友人総代、門生有志の総代として弔詞を霊前に捧げ、さらに遺族、親族の焼香と 続いた。式終了は午前11時であった。なおこの日の会葬者は千人余りだった。
 式後棺は落合火葬場に運ばれて火葬にされ、燒骨は小石川雑司ケ谷の夏目家墓地に葬 られた。

 入院挨拶広告

 ところで、漱石は明治43年修善寺温泉で胃潰瘍の療養をしていたが、病状が悪化して 帰京入院した。その際に出した広告がある。
「  啓上
小生修善寺にて病気の節はご懇篤なるお見舞を辱うし、これに加え昨夜帰京に際し、雨 天にも拘わらずお出迎えを蒙り候段、不堪鳴謝之至候。その後病勢漸く軽快に赴き候へ ども、昨夜直ちに麹町内幸町胃腸病院に入院仕当分静養の心組に候間右ご通知申し上げ 候。なお当分医師より来客とお面談を禁ぜられ候に付き、御用の節は自宅へご光来願上候
                十月十二日夏目金之助   」



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