石川啄木

/ 情報誌『デス・ウオッチング』93.8より



 岩手県生まれの歌人石川啄木は、明治の終わる3カ月前の明治45年4月13日、貧困の うちに肺結核で26歳で死んだ。啄木が朝日新聞の校正係に就職したのは明治42年3月。 その当時、彼の妻も結核、母も喀血と悲惨な状況であった。
 明治43年、石川啄木の長男が生後まもなく死んだ。菩提寺のない啄木は、下宿先の主 人に頼んで、浅草了源寺で葬儀を営んだ。それから2年後の明治45年3月、啄木の母が つは一家困窮のうちに死んだ。葬儀は土岐善麿の兄静が住職をしていた等光寺で営まれ たが、その時啄木は病気であった。1カ月後、今度は啄木が老父と妻に見守られながら息 を引き取った。葬儀は友人の金田一京助らの手によって同じく等光寺で行なわれ、遺骨 は寺院墓地中央にある総墓に埋葬された。

 淋しい葬儀

 啄木の葬儀の模様について報道されたのは「東京朝日新聞」だけであった。それには 次のように紹介された。
 「社員故石川一氏(本名)の葬儀は、昨日午前10時浅草松清町なる等光寺(本願寺中) に於て執行された。途中葬列を廃して、未亡人せつ子や佐藤真一、土岐善麿、金田一京 助其他の人々柩に付添い、予め同寺に参着。棺は狭い本堂に淋しくおかれた。やがて会 葬者はポツポツ集まる。夏目漱石、森田草平(中略)いう先輩やら親友やらの諸氏が見 える。しんがりには佐々木信綱博士が来られる。それに本社員の誰彼を加えてわずか4、 50名が淋しい顔を合わせた。人は少ないが心からの同情者のみである。程なく導師土岐 静師は3名の若い僧侶を具して淋しく読経する。おわって白衣の未亡人は可憐なる愛嬢京 子を携えて焼香した。香煙の影に合掌せる母子の姿は多感なる詩人の柩と相対して淋し い人生の謎である。4、50名は等しく泣かされた。続いて一同の焼香も式は終わって棺は 大遠忌のにぎにぎしい本願寺を5、6人の人に守られつつ、町屋の火葬場へ淋しくかつが れていった」
 この時の模様を天民が歌にしている。
  「 大遠忌に 賑える春の 真白日や
               静かに送る 君が御棺 」
     *大遠忌は親鸞六百五十年忌をさす

 函館の墓

 啄木の遺骨は一旦等光寺に埋葬されたものの、大正2年6月函館に「啄木一族の墓」が 建立され、そこに遺骨が移された。墓には「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹 とたはむる」の歌が刻まれている。

 啄木一周忌追悼茶話会

 大正2年4月啄木の追悼会が浅草等光寺で行なわれた。「近代思想」の消息欄に啄木一 周忌の追悼会の予告が掲載された。

 故石川啄木一周忌追悼茶話会

   日時、四月十三日午後一時より
   場所、浅草区松清町等光寺にて
   会費、金三十銭(当日持参)
   発起人、与謝野寛、佐藤真一、北原白秋(以下略)
   尚、出席の方は、来る7日までに
   芝区浜松町1の15 土岐哀果宛通知せらるべし。

                 (資料:冷水茂太「啄木遺骨の行方」)



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