福沢諭吉

/ 情報誌『デス・ウオッチング』93.6より


 
 幕府の翻訳方として渡欧、渡米した福沢諭吉は『西洋事情』を記し、明治元年に慶応 大学の前身である慶応義塾を開いた。明治34年2月3日に68歳の生涯を閉じた。その葬 儀、追悼文をまとめた『福澤先生哀悼録』が明治34年5月に発行され、新しくみすず書 房から復刻された。
 それによると、福沢は1月末に脳出血を起こし、2月3日に死亡する。葬儀は2月8日 午後1時善福寺で仏式にて行ない、今里の本願寺墓地への埋葬が決定する。

 葬儀の準備

 葬儀のためまず総務委員5人が選定され、それぞれの部署の用意に着手。役割は次の ように定められた。式係38人(行列、寺院内、自宅内)、接客係48人(寺院、自宅)、通 知係16人、会計係9人(自宅、事務所)、庶務係である。葬儀準備のため葬儀社から雇っ た数10人の人夫の他、義塾に関係ある会社、団体から派遣された者が数十人が邸内式場、 及び墓地での作業を行なう。

 死亡通知と死亡広告

 先生の死亡通知はおよそ4500余通、死の翌日未明から事務を始められ、まる2昼夜を 費やした。死亡広告には「生花・造花・香奠その他一切の贈り物は亡き父の遺言により、 堅くお断り申し上げ候」とあった。

 葬儀次第

 2月8日午後1時、三田自邸より出棺、式場麻布山本町善福寺
 行列順序 普通部生徒−幼稚舎生徒−商業学校生徒−大学部生徒−樒(三対)−導師−香炉−位牌−銘旗−柩(義塾評議員)−喪主−親戚−柩台−大学講師−塾員、各宗僧侶− 会葬者−車馬

 弔問・弔電・弔書の数

 福沢が死亡した2月3日の夜より、3週間後の24日までの弔問・弔電・弔書のそれぞれ の数が記録されている。2月3日夜(32人)、4日(522人)、5日(411人)、6日(238人)、 7日(394人)、8日(葬儀当日27人)、9日(5人)、10日(5人)、12日(5人)14日(3 人)、16日(1人)が最後で、合計1674名。弔電は15日が最後で632通、弔書は24日ま でで1727通であった。

 葬儀当日

 前日の7日には雪が降ったが、当日は晴れて道はほぼ乾いていた。時とともに四方より 会葬者が集まり、各休憩所はいずれも人であふれた。さて福沢邸では離れ奥の間の中央 に霊柩が白布に覆われて安置され、その前に真影ならびに位牌を置いた卓が、その左右 には供花が置かれ、次の間の中央に焼香台が置かれて、香の煙が立ち上っている。
 午前10時30分、導師が衆徒を引き連れ霊前に参拝し、偈を読誦し終わってから、遺族 の焼香が始まった。昼になると霊柩を輿に納め、零時四十分慶応義塾の生徒が先頭に立っ て進んだ。順序は義塾普通部生徒700余名、幼稚幼稚舎生徒200余名、商業学校生徒300 余名、大学部生徒350余名が4列で進み、次に大学部生徒9名が竹筒に挿んだ樒(3対) を携え、次に導師以下僧侶5名、次に香炉、位牌、次に「故福澤諭吉の柩」と書かれた銘 旗が続いた。四隅に白蓮華を供えた桧白木作りの柩を乗せた輿は50人で担がれ、その左 右には北里柴三郎など17人の義塾評議員が続き、次に喪主福沢一太郎氏、次に親戚が従 い、さらに柩台、大学講師、塾員、各宗僧侶、一般会葬者が続いた。その総員およそ1万 5千人という。

 式次第

 午後2時頃には山元町善福寺に葬列が到着。本門両側に接客所があり、それより中門に 至るまでの右側には天幕を張り詰め、休憩所にあてられた。境内の地面は雪のぬかるみ が乾いていないので一面に蓆を敷かれ、その数3千枚。本堂の上はすべて白布を敷詰め、 式場の右を喪主席、次が婦人席。左は会葬者席とした。
 霊柩が諸僧の先導によって式場に到着すると、ただちに導師及び法主名代の焼香があ り、次に「正信偈」が誦えられ、喪主を始め親戚その他の焼香が行なわれた。式終了は 午後3時、そのあと霊柩は寺院を出発して五時に埋葬式を終える。

 塾員僧侶の施本

 真宗本願寺派塾員の佐竹師は、通夜をする人々のために仏教の小冊子を寄与し、葬式 当日には善福寺門内に数名の僧侶を出張させて、「白骨の御文章」および福沢全集序論の 一節を印刷した施本会葬者一般に配布した。



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