遺体確認
腐敗のあまり進んでいない死体の場合は、まず虫を取り除いてから、指紋を取り、皮 膚の色、髪の色などを記録する。また軍隊のの認識票を付けていれば、証拠として保管 される。骨から身元を確認する場合、全身で200個以上もある骨を、1つ1つ頭から順に 並べていき、そして足りない骨を印していくのである。また他人の骨が混ざり込んでい る場合には、別の骨として保管しておかなければならない。作業手順として並べる際に、 骨の大きさ、骨質、色、筋肉に付着する粗面の状態を考慮しながら並べていく。骨を人 体の形に並べるにはコツがあって、経験のない人間なら多少解剖学の知識があったとし てもまず不可能である。それにはまず最初に、腰にあたる左右の寛骨と、中央の仙骨と を組み合わせて骨盤をつくる。この3つの骨の関節面は複雑な形をしているため、個体 が違えば絶対に合わないと言う。骨盤ができたら、脊椎骨を下から順に並べていくので ある。一番上の第一勁椎は別名環椎ともいい、火葬場で咽仏として拾うものである。し かし本当の咽仏は、強い火で焼くと跡形もなくなってしまうという。
歯の記録
歯による身元確認は、もっともよく使われている。歯科医はまず死体の歯の記録を取 る。歯並び、虫歯、金属冠や入れ歯などの状態をデンタル・チャートに細かく記録する のである。
納棺作業
個人識別作業の終わった死体は、次に防腐処理が行なわれる。まず香料が全身にまか
れる。それは茶褐色の液体である。その次は粉状のフォルマリンで死体をすっかり包ん
でしまう。骨だけの死体は、個の粉末をふりかける。天ぷらのたねをメリケン粉でまぶ
すのと同じ要領であるという。軟部が多く残っている遺体には、腹部にメスを入れ、香
料を注入した後でフォルマリン末をたくさん投げ込む。この防腐処理がすむと、死体を
ガーゼでぐるぐる巻にする。骨しかなければ人間の形に骨を並べ、それを包む。その上
から白の大きなシーツで全身を覆い、大きなピンで方々を留める。さらにその上に、毛
布で包むのである。こうして厳重に包んでから金属の棺に収める。たとえ1個の頭蓋骨、
1本の骨しか残っていなくともこの立派な棺に収め、10本以上のネジで留められる。こ
の棺はさらに四角いジュラルミン製のコンテナーに収められ、その上から長さが2メー
トル半もあるアメリカ国旗が被せられる。ジュラルミンの箱の外側に、姓名、階級、認
識番号が記入され、移送されるまでの間、遺体安置所に収められるのである。
航空機事故の遺体確認
1985年8月12日6時12分、羽田空港を飛び立つた日本航空123便は、群馬県の御巣鷹 山に墜落した。乗り合わせた乗員・乗客は524名、うち520名が命をなくした。8月12 日の事故から50日間に、上野村と藤岡市に派遣された日航社員の延べ人数は1万7000 人。遺族関係者の総数は3000名。準備された棺の数は800。このうち使用された棺は675。 事故後、49日までにかかった経費は、宿泊費が約4億円。バス、ハイヤーのチャーター 料金が3億円。藤岡市周辺で行なわれた火葬・葬儀代金が2億円であるという。
遺体確認のためのプロ
8月12日夜、群馬県警察医会の理事2名が、検視体制相談のために県警察本部に呼び 出された。1名は歯科医、もう1名は胃腸科医である。2人は県警から、警察医師会所 属の医師たちに待機するよう電話で要請をした。当初2人は、1人で5人の遺体を検視 するとして、およそ100人の医師を確保すればよいと考えていた。群馬県の医師会は14 の地区医師会によって構成されているが、事故のあった地域に近い医師会会長宅にも、藤 岡警察署の巡査部長から検視依頼があった。
遺体安置と遺族による確認
524人乗りの日航ジャンボ機は、翌13日早朝無残な形で発見された。長野県佐久群の
総合センターには、安否を気遣う家族約350人がバス7台と乗用車で駆けつけた。同日午
後11時過ぎ、4人の生存が葬作中の県警レンジャー隊員によって発見された。ジャンボ
機の機体は御巣高山の南東山中に2、3キロにわたって散乱、機体の主要部分は3ケ所に
分散し、遺体捜索の難しさをものがたっている。同日消防庁の日航事故災害対策連絡室
は、長野、群馬、埼玉3県の消防所員に、救助に出動できる体制を整えるよう要請した。
乗客の家族、関係者は墜落現場に近い群馬県藤岡市内の小学校体育館など6ケ所へ次々
と駆けつけた。早朝、バス7台で小海町に到着したが、再び藤岡市に取って返した家族
約350人を含め、午後には約2000名に膨れ上がった。市の対策本部が氷水を用意したが
飲む人もいなかったという。家族たちはその夜は、近郊の旅館などに泊まり、14日朝、再
び体育館などに集合した。
14日は午前5時から警官、自衛隊員が遺体の収容作業を開始した。現場の部隊責任者
は約3000人を動員した前日の捜索活動で、生存者の救出・捜索活動を打ち切り、遺体の
本格的な収容に着手、正午現在で170人の遺体を発見、うち94体を収容した。
墜落現場から遺体はヘリコプターで第一小学校に運ばれる。ヘリが舞い降りる度に毛
布にくるまれた遺体が次々に運び出され、新しい棺に納められた。長さ1メートルにも
満たない小さな棺には子供の遺体が納められた。このあと身元確認可能なものは市民体
育館に運び、検視の後、持ち物や体の特徴を事情徴収した資料と照合。該当者が判明し
次第、市内4ケ所に待機している家族を電話で呼び出し、別室で遺体を確認させるので
ある。損傷の激しい部分遺体は工業高校と女子高校の体育館に安置され、確認のすんだ
ものから順次藤岡高校に移された。家族の控え場所の1つである、第二小学校の体育館
では、14ケ所のホテルに分れて一夜をあかした800人近い遺族が集まり、遺体確認を前
にイライラしていた。
遺体安置
遺体確認が行なわれる市民体育館中にはビニール・シートが敷きつめられ、衡立で3
つに仕切られた。入り口左手に、遺体を受付る机、遺族から事情聴取するテーブル、検
視医師たちの登録受付、検視を終えた遺体の検案書を書くコーナーがある。通路をはさ
んで右側は、検視のすんだ遺体を再び棺に納める場所である。棺には白の覆いがかけら
れ、その上に死者が着ていた衣服や歯の特徴を書いた紙が貼ってある。そして体育館の
残りの半分が検視場所に当てられている。検視スペースは二畳ほどで、通路の両側に11
ずつ並んでいる。通路には歯科用のレントゲンカメラが2台置かれた。線香と悪臭のす
るむし暑い体育館のなかで、警察官2、300人、150人を超す医師や看護婦が立ち働いた。
遺族は、日本航空が一遺族に1人ずつつけた世話役に連れられて、身内の遺体確認に来
た。
遺体は体育館に運ばれると、入り口近くの遺体受付で番号が打たれた。完全遺体は1
から順に番号がつき、離断遺体には1つ1つ「リー1」「リー2」と番号が付けられた。
毛布にくるまれた遺体に番号が付けられた後、検視スペースに運ばれた。検視する医師
は内科と外科がペアになった。歯医者は、歯がある遺体が運ばれるときに参加した。検
視には長い時間がかかった。写真撮影の後は、身長・胸囲などの測定があり、角膜の混
濁、口や鼻の粘膜の乾燥、直腸温などの死体現象の観察が続く。また墜落時にできた損
傷部の長さや深さが測定され記録された。擦り傷や裂症は無数にあったので、遺体表面
の観察だけでも大変な作業である。心臓があれば注射器で血を抜き取り、血液判定に回
す。一体の検視には、およそ2時間かかった。
死体検案書
検視の後、医師たちは「死体検案書」の作成を行なう。これがないと、たとえ遺体の
身元がわかっていても、遺族は引き取って火葬にすることができないし、戸籍から抹す
ることもできない。しかし検視が終わっても身元がわからない場合には、氏名欄には、鉛
筆で遺体番号を書いた。死体検案書は、戸籍窓口や火葬場への提出用などに、3通作成
されることになっていた。次に手足などの離断遺体については、「検案証明書」が発行さ
れる。
初日の14日に墜落現場から回収された遺体は、完全遺体が111、部分遺体が161であ
る。その日に搬送された遺体は、その日のうちに検視するという方針で作業を行なった
ので、作業が完了したのは深夜2時半であった。検視の方法については、身元確認に役
立ちそうな歯や、手術あとに重点を置くことになり、検案書に一律にゴム印を押したり、
カーボンコピーで作成することは遺族に事務的な印象を能えるということで、禁じられ
た。
480人超す遺体確認
遺体確認作業は15日未明まで藤岡市民体育館で続けられ、480体の遺体が確認され、う ち67人の身元が判明した。検視を受けた遺体は121人にのぼった。損傷の激しい遺体が 多いため収拾作業は難航し、雨のため午後4時25分で打ち切られた。身元が判明した乗 客の遺族は、大半が遺体を自宅に連れ帰った。
ウジとの戦い
墜落現場から3、4日たって収容された遺体のほとんどの遺体にウジが発生した。ウ
ジの大きさで、死後時間を推定することができるという。夏場ならイエバエが産卵した
直後にウジになり、2日で7ミリ、5日で12ミリになると言う。体育館に運ばれたウジ
は大きく成長し、毛布を開くと、肉塊にウジがびっしりとたかっていた。検視2日目は、
明け方の4時半まで、翌16日は深夜2時半まで続いた。
遺体についたウジを払うのは看護婦の仕事だった。大きな瓶に入った殺虫剤をかけ、刷
毛やほうきでウジを取っていく。肉の中に食い込んだウジは、ピンセットでつまみ出す
のである。こうしてバケツに一杯になったウジは、体育館の排水口から下水に流された。
検視がすんだ遺体は、外科医が損傷部を縫うのである。頭が砕けたり、手足のない遺体
には包帯を巻いて隠した。又看護婦の中には、遺体のひげを剃ったり、頬紅を付けたり
したが、身元確認のため、死化粧はわからないくらいに薄くした。検視を終えた遺体は
次に棺に納められ、遺体確認に来た遺族と対面するのである。
家族2人で確認へ
身元が確認されず藤岡工業高校体育館に仮安置されている遺体は137体に達し、群馬県
警は16日、確認のすんでいない約400の家族に、一家族から1人出てもらい確認しても
らう事にした。遺族も世話役が付き添っていれば、棺に収められた未確認の部分遺体の
検分ができるようになった。のである。遺族は体育館の入口で、手袋とマスクとタオル
が渡される。棺の蓋には紙と札が貼ってあり、緑の札は男、赤は女と色分けしてある。紙
には遺体の特徴が記してあり、もしやと思う棺は、警官に言って開けてもらうのである。
17日、確認遺体はようやく200を超えた。毎日新聞が身元確認の決め手の調査を実施。
決め手として多かったのは(1)顔(2)着衣(3)運転免許書、の順である。また男性の場
合は運転免許書やカードが多く、逆に女性は顔や指輪が多いなど男女ではっきり差があっ
た。17日未明までに身元がわかった220体を見ると、顔が4分の1で最も多く、以下着
衣、免許書、歯型、搭乗券の順。変わったところでは駐車券や診察券、保険証などもあっ
た。(毎日新聞8月17日夕)
待てない遺族ら次々山に
17日、「現場に供養を」と、3、4時間かけて事故現場まで歩いて辿り着く家族が相次
ぎ、線香の煙があちこちで上がった。その数約20人。夜になって事故以来初めて激しい
雨となり、遺体遺品の流失を防ぐため、シート被せなどの作業が行なわれた。事故から
7日目の18日は、初七日にあたり、遺族の一部は肉親の眠る山中に入り、慰霊の花や線
香を手向け、捜索の自衛隊員も現場で慰霊祭を取り行なった。
30日夜藤岡工業高、藤岡女子高の体育館に安置されていた163棺が、搬出され、市民
体育館一ケ所に集められた。この日移されたのは、いずれも身元のわからない手足や歯
の一部などの部分遺体の納められた棺である。確認作業が終わった午後7時から、日航
の下請け会社の職員約80人が両校の体育館から棺を次次と霊柩車に積み、計20台でピス
トン輸送し、合計239棺が市民体育館に集められた。これら部分遺体は損傷や腐敗が激し
いため、冷却処理などをして長期保存を行なう。事故から4か月、2人を残して518体の
遺体が確認された。
歯科医の活躍
指紋や足紋、所持品による身元の確認が行き詰まった後、最後によりどころになるの
は、歯と骨による識別である。歯は指紋同様、1人1人違った形をしていることと、年
令が推定することができる。ここに数人の歯科のカルテやレントゲン写真があれば、死
後のレントゲン写真と重ね合わせて、完璧に身元を割りだすことができる。検視が始まっ
てすぐ、歯科医たちは乗客・乗員の歯科カルテとレントゲン写真の提出を依頼した。そ
の結果、遺族が持参したり、郵送されたり、また各地の県警察の窓口に届けられた。こ
の検視作業に従事していた歯科医師の服部さん(58)が、事故対策の心労から、15日午後
心不全で死亡するという悲しい出来事があった。また遺体には歯が3本しかないものや、
全くないものもあり難航を重ねたという。しかしたった1本の歯が決め手で身元がわかっ
た原田さん(38)の場合もあった。こうした努力で、事故から1か月過ぎるころには、身
元確認がすんでいない遺体は10体ほどになった。それでも体育館に安置された棺は150
近くあった。9月29日、101の棺に整理された遺体が、前橋市の県警察本部機動センター
に移された。
11月下旬に東京歯科大学法学教室に、最後の身元確認作業に協力の依頼が県警察本部
から届いた。この時点で、2人を残し558名の身元が確認されていた。
12月20日、午前10時。群馬県前橋市のスポーツセンターで最後の出棺式が行なわれ、
65の棺が並べられた。それが身元不明のまま火葬にされることになった四百数十の遺体
の最後の姿である。(資料:毎日新聞紙面、吉岡忍著『墜落の夏』新潮社他)
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